LOGIN配送車は、濡れた路面を削るような音を立てて止まった。
急制動に身体を投げ出され、美琴は胸へ抱いていた紙袋を両腕で庇った。助手席の足元へ数枚の資料が滑り落ちる。二十二年前の身辺調査書。その表紙が泥のついた靴底のそばで半ば開き、「桐生美琴」の文字を晒していた。
耳へ当てた携帯電話からは、もう呼び出し音が聞こえない。
確かめようと画面へ目を落とした瞬間、運転席側の窓が強く叩かれた。
「窓を開けてください」
雨音を貫く、征士郎の声だった。
配送車の運転手は、美琴と窓の外に立つ男を交互に見た。征士郎は濃紺の傘を差し、濡れた山道には不似合いな仕立てのよい背広を着ている。乱れのない髪、落ち着いた姿勢、抑えられた声。美琴を追って山道を駆けてきた人間には見えなかった。
背後には榊原家の黒い車が、道を塞ぐように停まっている。
「あなた、誰ですか」
運転手が窓をわずかに下ろした。
「榊原征士郎と申します。そちらにいる女性の夫です」
征士郎は内ポケットから名刺入れを取り出した。雨に濡らさぬよう指先で一枚抜き、開いた窓の隙間から差し入れる。
白い名刺には、榊原医療開発専務取締役という肩書が印刷されていた。
「妻がご迷惑をおかけしました」
「迷惑というか……この人、追われてるって」
「家族間で少々行き違いがありまして」
征士郎は困ったように眉を下げた。
「妻は昨日からひどく混乱しています。病気の妹の手術を巡って感情的になり、会社の資料を持ったまま自宅を出てしまったのです。警察にも相談しています」
「違います」
美琴はすぐに言った。
「この人は、私の口座を勝手に解約しました。病院の記録も偽造されています。警察へは、私の方から――」
「美琴」
窓の外から名を呼ばれ、声が止まった。
それでも二十二年間、逆らう前に黙ることを覚えさせられてきた声だった。身体が先に反応し、喉が狭くなる。
征士郎は運転手へ視線を戻した。
「ご覧の通りです。今は誰が何を説明しても、敵だと思い込んでしまう」
「思い込んでなどいません」
「妻は昨夜、妹へ手を上げました。今朝は会社へ押しかけ、機密資料を持ち出しています。健康状態も心配で、担当医からは安静にするよう言われているところです」
病院には、美琴が提供へ前向きだという記録が残されている。
真実の一部だけを選び、順番を整えれば、美琴は簡単に異常な妻へ変えられる。
運転手の目から、先ほどまでの警戒が薄れていった。
「でも、この人、裸足で山を走ってたんですよ」
「妻がそこまで追い詰められていることに、夫として責任を感じています」
雨粒が傘の縁から落ち、肩を濡らした。
「これ以上、見知らぬ方を巻き込みたくありません。妻はこちらで保護します。ご親切に感謝いたします」
「保護ではありません」
美琴は携帯電話を握った。
「この人と一緒に行けば、何をされるか分かりません。警察へ連れていってください。先ほどの交番ではなく、別の――」
画面が暗くなっていた。
通話履歴には、発信した番号と、通話時間一秒の表示が残っている。
誰かが出た。
美琴の声は届かなかったのだろうか。
「電話、返してもらえますか」
「お願いです。もう一度だけ、かけさせてください」
「奥さん。悪いけど、俺も仕事中なんです。旦那さんが来てるなら、夫婦で話した方がいいでしょう」
「美琴、降りなさい」
征士郎が言った。
その声の奥に、先ほどまで他人へ向けていた柔らかさはなかった。
運転手もそれに気づいたのか、一瞬だけ眉をひそめた。だが名刺へ再び目を落とし、ためらいながらも助手席の扉を解錠した。
小さな機械音が、美琴の耳には錠前の外れる音ではなく、逃げ道が閉じる音に聞こえた。
「警察へ確認してからにしてください」
「旦那さんが警察に相談済みだって言ってるでしょう」
「俺には、どっちが本当か分からない。でも、このまま連れていくわけにもいかないんですよ」
その通りだった。
見知らぬ女が、夫に追われていると言う。
一方の夫は、名刺を差し出し、警察へ相談済みだと説明する。濡れた服で資料を抱き、泣き腫らした顔で訴える美琴より、どちらが信じられるかは明らかだった。
征士郎はすでに、社会の中で信じられる顔を作り終えていた。
美琴は紙袋を抱え直した。
助手席から足を下ろす。靴を失った右足が冷たい泥へ触れ、小石が破れた靴下越しに刺さった。
征士郎は傘を美琴の頭上へ傾けた。
夫が妻を気遣う、穏やかな仕草だった。
その手が美琴の肘を掴む。
指は痛いほど強かった。
「資料を渡しなさい」
唇をほとんど動かさず、征士郎が囁いた。
「嫌です」
「ここで騒げば、運転手も警察も、ますます君を信じなくなる」
顔には微笑を残したまま、指だけが深く食い込む。
美琴は運転手を見た。
彼は気まずそうに視線を逸らし、携帯電話を受け取ると窓を閉めた。配送車はゆっくりと後退し、黒い車の脇を抜けて走り去った。
赤い尾灯が雨の向こうへ消える。
美琴の耳には、発信先で一度だけつながった通話の無音が残っていた。
「車へ乗れ」
専属運転手が後部座席の扉を開ける。美琴はその男の顔を見た。長年、屋敷と会社を行き来する際に何度も世話になった人物だった。
「お願いです。警察署へ行ってください」
美琴は後部座席へ押し込まれた。
征士郎も隣へ乗る。扉が閉まると、雨音が遠ざかり、革と香水の匂いが満ちた密室になった。
車が発進する。
美琴は資料を膝へ置き、右手で扉の取っ手へ触れた。施錠を示す小さな突起は下がっている。
征士郎は答えず、濡れた袖口を布で拭った。
美琴は窓の外を見た。
山道を下り、市街地へ戻るものと思っていた。だが車は途中の分岐で、自宅とは反対方向へ曲がった。
海を示す案内標識が、雨に濡れて青く光っている。
「この道は、家へ戻る道ではありません」
「少し静かな場所で話をする」
背中に冷たいものが走った。
「警察署へ行ってください」
「警察では話にならなかったのだろう」
征士郎は前を向いたまま言った。
「君の説明には証拠がない。私が君を騙した、薬を飲ませようとした、臓器を奪おうとしている。そんな話を、誰が信じると思う」
美琴は膝の資料へ手を置いた。
「ここにあります」
「会社の内部資料を盗み出したという証拠ならな」
「私を結婚前から調べていた記録です。父の会社、株式、信託、健康状態まで」
「企業同士の婚姻には調査が伴う。珍しいことではない」
「目的欄には、資産と議決権の長期管理と書かれていました」
征士郎の横顔は動かなかった。
「三年前の資料には、私の検体を無断で使った記録があります。本人への告知は不要と書かれていました」
「それで?」
平坦な問いだった。
美琴は夫の顔を見た。
「それで、とはどういう意味ですか」
「知ったところで何が変わる」
「病院では、私がすでに説明を受け、提供へ前向きな意思を示したことになっています。六月十七日、私は会社にいました。誰が私のふりをしたのですか」
「病院側の記録違いだろう」
「本人確認書類と署名があるそうです」
「なら、君が忘れているだけではないのか」
「また私を、正常ではないことにするのですか」
征士郎はようやく美琴へ顔を向けた。
「今の君を見れば、誰でもそう思う」
「私をこうしたのは、あなたです」
「違う。君が従わなかったからだ」
「書類へ署名し、手術を受ければよかった。そうすれば貸金庫へ行く必要も、会社の倉庫を漁る必要も、警察で恥を晒す必要もなかった」
「私の口座を解約したのは、署名を拒む前から決めていたのでしょう」
「術後の管理に必要だった」
「関連会社へ全額移すことが?」
「資金を分散させるより効率がいい」
「私のお金です」
「夫婦の財産だ」
「結婚前の預金も、父から相続したお金も入っていました」
「二十二年間、この家で生活できたのは誰のおかげだ」
美琴は窓へ目を向けた。
街並みが途切れ、海岸沿いの道へ入っている。鉛色の海が、ガードレールの向こうで荒れていた。雨に煙る水平線は曖昧で、空と海の境が見えない。
「華帆との子どもは、どうするつもりだったのですか」
「今、その話は関係ない」
「関係があります。私の肝臓を華帆へ渡し、華帆にあなたの子どもを産ませる。私はそのあとも妻として家に残り、会社を支える。そういう計画だったのですか」
「華帆が余計なことを言ったようだな」
「否定しないのですね」
「子どもは守る」
「私たちの子どもには、存在しなかったと言ったのに」
「またその話か」
「あの時のことと、今を同じにするな」
「あなたにとって違うのは、母親だけでしょう」
「華帆の身体に負担をかけるな。今は情緒が不安定な時期だ」
「私の身体へは、肝臓を切り取る負担をかけてもよいのですか」
「君は健康だ」
「健康な人間には、未来がないのですか」
「私との結婚は、父の会社と株式を手に入れるためだったのですか」
「答えてください」
「何を今さら」
「では、本当なのですね」
「桐生宗一郎の会社は、あのままなら潰れていた」
「あなたが取引停止を仕組んだのですか」
「私は機会を利用しただけだ」
「冬真と関わり続ければ会社を潰されるという話も、嘘だったのですか」
二十二年前、冬真へ別れを告げることさえできなかった。
連絡を絶ち、征士郎へ嫁ぐことが父と従業員を守る唯一の道だと信じた。
冬真が自分をどれほど恨んだとしても仕方がないと思っていた。
あの選択の土台そのものが、征士郎の作った嘘だった。
「どうして、私だったのですか」
「宗一郎の一人娘だったからだ」
「君と婚姻関係を結べば、株式と議決権を長期的に管理できる。宗一郎が死ねば、桐生家の資産も君を通じて動かせる。当時としては最も確実な方法だった」
「私は十八歳でした」
「成人していた」
「父が倒れ、会社を失うと脅され、誰にも相談できなかった」
「それでも署名したのは君だ」
「二十二年間、私が会社の経理を担ってきたことも、最初から計算していたのですか」
「君に数字を見る力があると分かったのは、結婚してからだ。正式な役職を与えずとも、君は会社のために働いた。父親の会社を守っていると思わせておけば、いくらでも無理をした」
「私が倒れそうになっても、休ませなかった」
「君が自分で働いたんだ」
「あなたは、私の作った資料へ自分の名前を書いた」
「妻の仕事は夫の成果の一部だ」
「給料も、肩書も、何もくれなかった」
「生活は保障した」
だから財産も、労働も、身体も差し出すのが当然だと。
「華帆の病気が悪化した時、私が提供候補になると知った」
「それで、利用できるものがもう一つ増えた」
「そうだ」
「最初から臓器が目的だったわけではない」
「華帆が生まれたのは、君と結婚した後だ。病状が悪化し、君が候補になり得ると判明した。それなら使わない理由がない」
「家族の中で融通できるものを、外から探す必要はない」
「私の肝臓は、会社の資金ではありません」
「君は私の妻だ」
「君が従っていれば、何も知らずに穏やかに暮らせた。手術が終われば療養させ、回復した後は今まで通り家へ戻すつもりだった」
「華帆とあなたの子どもがいる家へ?」
「表向きは何も変わらない」
「私の口座も株式も、あなたが管理したままで?」
「君には難しい判断をさせない方がいい」
海岸道路から細い上り坂へ入る。風が強まり、車体がわずかに揺れた。
前方に、崖沿いの展望駐車場が見えた。
雨の日には訪れる者もいない、古びた場所だった。海側には低い柵が続き、その向こうは切り立った崖になっている。
駐車場の中央には白い車が停まり、その傍らに華帆が立っていた。淡い色の外套に透明な傘を差し、病院へ向かったはずなのに、化粧も髪も乱れていない。
黒い車が停まると、征士郎は先に降り、美琴側の扉を開けた。
「降りなさい」
「ここで何をするつもりですか」
「話を終わらせる」
美琴は資料を抱き、車外へ出た。
潮を含んだ風が強く吹きつける。濡れた髪が頬へ張りつき、裸足の右足から体温が奪われた。
「お姉ちゃん、そんな格好で何してるの」
心配する妹の声だった。だが目は、美琴の胸にある紙袋だけを見ていた。
「それ、返して」
「これは私に関する資料です」
「会社のものでしょう?」
「私の血液を無断で調べた記録も入っています」
「だから必要だったんだよ」
華帆は傘を傾け、一歩近づいた。風に煽られた透明な傘が大きく歪む。
「私の命がかかってるんだから」
「私の同意は必要ないの?」
「お姉ちゃんなら、最後には助けてくれると思ってた」
「助けを求める人は、先に相手の口座を奪い、逃げ道を塞いだりしません」
「お義兄さんだって、好きでこんなことをしたわけじゃないよ。お姉ちゃんが言うことを聞かないからでしょう」
「報告書を返して。手術へ同意してくれたら、もう責めないから」
「あなたが私を責めるのですか」
「だって、お姉ちゃんのせいで会社まで危なくなってる」
華帆は傘の柄を両手で握り、声を強めた。
「その資料が外へ出たら、病院との契約も信用も全部なくなるかもしれない。会社が潰れたら、お義兄さんは何もかも失うんだよ」
「不正をした結果です」
「そんな言い方しないで!」
「お義兄さんは、ずっと家族のために働いてきたの。お姉ちゃんだって、この会社のお金で暮らしてきたでしょう」
「その会社を二十二年間支えたのは私です」
「でも、誰もお姉ちゃんに頼んでない」
征士郎の隣で帳簿を見続けた夜も、資金不足を埋めるため頭を下げた日も、誰も頼んでいないことにされる。
「手術を断ったら、会社が潰れる」
華帆は腹部を庇うように手を当てた。
「この子が生まれる前に、お義兄さんが逮捕されたり、父親として何もできなくなったりしたら、どうするの?」
「それも私の責任だと言うの?」
「お姉ちゃんが黙って同意すれば、何も起きないんだよ」
「私は病気なの。このままじゃ、この子を産めないかもしれない。お姉ちゃんには健康な身体がある。会社のことも分かる。四十歳までちゃんと生きてきた。少しくらい、私に分けてくれてもいいでしょう」
美琴が二十二年かけて積み上げたものは、華帆にとって少しずつ分けてもらえるものだった。
「私は同意しません」
美琴は雨に濡れた資料を抱き直した。
「資料も渡しません。病院へ行き、私の名で作られた記録をすべて調べます。口座と貸金庫についても、正式に手続きをします」
華帆の目から涙が消えた。征士郎が二人の間へ入る。
「十分だ。美琴、車へ戻れ」
「戻りません」
「今は興奮している。自宅で落ち着いてから話す」
「自宅には帰りません」
「帰る場所はあそこしかない」
美琴は征士郎を見た。雨に濡れた夫の顔は、二十二年間見続けたものと同じだった。
けれどもう、その表情の奥に愛情を探すことはなかった。
紙袋を抱く腕へ力を込める。
「私には、どこへ行くかを決める権利があります」
「妻が夫の許可なく、どこへ行くつもりだ」
美琴は静かに息を吸った。潮の匂いが肺へ入り、冷たい雨が頬を伝う。
裸足の足裏は傷つき、立っているだけで痛んだ。それでも今、自分の身体がここにあることを、はっきりと感じていた。
「私はあなたの妻である前に、私です」
征士郎の顔から、表情が消えた。
次の瞬間、彼の手が美琴の腕を強く掴んだ。
これまで他人の前では決して見せなかった怒りが、初めて剥き出しになった。
「誰のおかげで、その名前を守ってこられたと思っている」
低い声が、荒れた海の音より冷たく響いた。
榊原医療開発の定時株主総会まで、残り十二日だった。例年なら、美琴はこの時期になると征士郎が自宅へ持ち帰る総会資料の数字を見直し、前年との増減を確認し、取引先から届く祝い花の扱いまで気にかけていた。それでも会議場に自分の席が用意されたことは一度もなく、当日は控室と廊下を往復しながら、必要な資料を役員へ渡すだけだった。今年、美琴の前に置かれているのは、配布用資料ではなく榊原医療開発の最新の株主名簿だった。久世の事務所の長机に広げられた名簿を追っていた美琴は、途中で指を止めた。そこには見慣れたはずなのに、いまだ自分の会社だという実感を持てない名前があった。〈ミコト・アセットマネジメント株式会社〉。保有比率は経営権を左右するほどではないが、株主として総会へ出席し、保有株式に応じて議決権を行使できるだけの株数が記載されていた。「いつ取得した株ですか」久世は取得履歴を開き、設立直後の三年前から複数回に分けて買い増していると説明した。市場を経由した取得だけではなく、榊原家と関係の深い株主から譲渡された分もあり、資金の一部には美琴名義の旧口座から移された金が使われた疑いがある。会社の存在を知らなかった頃、美琴の名前で作られた法人は夫の会社の株まで保有し、書類上の美琴は知らないうちに株主へなっていた。「しかも、株主名簿上の名義人は法人です。登記上、その法人を代表できる人物は現在も美琴さんになっています」久世の言葉に、美琴は名簿の社名と自分の名前を交互に見た。ミコト・アセットでは、融資も保証も投資も自分が決めたことにされてきた。その肩書を欲しいと思ったことは一度もないが、征士郎が自分の名義を利用するために作った代表権なら、その権利だけを都合よく封じられることにも納得できなかった。すでに征士郎側からは、株主総会への出席を認めないという趣旨の通知が届いていた。ミコト・アセットの代表取締役登記には重大な争いがあり、会社経営へ実際に関与してこなかった美琴が突然株主権を行使すれば混乱を招くため、総会当日に受付へ現れても資格を認めない可能性があると書かれている。法廷では美琴を関連会社の実質的経営者として扱い、債務まで負わせようとしていた征士郎側が、株主として権利を使おうとした瞬間には「経営へ関与していない」と主張している。その文章を最後まで読んだ美琴は、怒りよりも先に、また同じやり方
美琴が最初に作ったのは、報酬額の表ではなかった。久世の事務所の長机いっぱいに、自分が実際にしてきた仕事を年代順へ並べることから始めた。資金繰り、銀行との返済調整、取引先への支払い交渉、社員給与の計算補助、役員会資料の作成、取引先の冠婚葬祭への出席。これまで「妻だからして当然」と思ってきたことを一つずつ仕事として書き出すたび、二十二年間の輪郭が別の形で見えてきた。「家事と会社業務は分けましょう」久世は、美琴が書いた一覧の中央へ線を引いた。榊原家の食事を作ることや喜和子の通院へ付き添ったことまで会社への請求へ含めるつもりはない。だが、取引先の葬儀へ征士郎の代理として参列し、会社名義の香典額を判断したことや、銀行担当者との面談資料を作成したことは、家庭内の手伝いではないと彼は明確に区別した。美琴は古い手帳を開き、予定欄を一つずつ確認した。月末の欄には決まって銀行名と数字が書き込まれている。午前十時、中央銀行支店。午後二時、東都医療機器。午後四時、社員給与確認。夜には榊原邸へ戻り、喜和子の夕食を作ったあと、征士郎が持ち帰った資料を見ながら翌月の支払い順位を決めていた。あの頃の自分には、どこからどこまでが仕事なのか考える余裕すらなかった。「メールも残っています」美琴が出した古い外付け記録媒体には、会社の共有アドレスから転送された連絡が大量に残っていた。征士郎の秘書から送られてきた請求一覧、経理担当者からの確認依頼、取引先から直接届いた支払い相談。宛名には〈榊原専務奥様〉と書かれているものも多いが、内容は明らかに会社の資金判断を求めるものだった。久世はその一通を開き、画面へ表示した。十四年前、資金不足が深刻だった月のメールだった。経理課長が、社員給与と医療機器会社への支払いのどちらを優先すべきか美琴へ尋ねている。美琴は給与を予定通り支給し、医療機器会社へ自分から三日の延期を頼むと返信していた。その三日後、取引先から〈奥様のお約束どおり入金を確認しました〉という返事が届いている。「専務ではなく、私へ聞いている」「このメールだけではありません」久世が検索条件を変えると、似た連絡が何十件も出た。融資の返済日を一週間動かせないか、仕入先の一社へ先に払うべきか、給与計算に不足がないか。正式な役職も社内メールアドレスもない美琴へ、会社の人間が直接判断を求めている。しかも
離婚訴訟の期日は、これまでより傍聴人の数が多かった。美琴が成年後見を必要としないと判断されて以降、榊原家と九条家の対立は金融機関や取引先にも知られるようになり、法廷の後方には報道関係者らしい姿も混じっている。美琴は久世の隣へ座り、机の上に置かれた書面を一枚ずつ確かめた。三十八件の保証契約、ミコト・アセットの議事録、銀行の入退館記録、筆跡鑑定書。向かい側には征士郎がいた。濃紺のスーツに白いシャツを合わせ、表情には焦りを見せていない。裁判所の外では妻を心配する夫として振る舞い、法廷では会社を守る経営者として座る。その切り替えを二十二年間見てきた美琴には、口元のわずかな硬さだけが、今日の主張に相当な準備をしてきたことを教えていた。征士郎側の代理人は、開廷後まもなく提出書面の説明へ入った。美琴は榊原家から一方的に財産を奪われた者ではなく、長年にわたり榊原医療開発と関連会社の資金調達へ関与し、個人保証、関連会社の代表、病院法人への投資判断を通じて事業拡大へ参加してきたという。ミコト・アセットでは代表取締役として貸付や不動産取得を承認し、複数の金融機関はその経営関与を前提に融資を実行した。したがって、婚姻期間中に形成された利益だけを美琴が受け取り、事業債務だけを征士郎側へ残すことは許されないという論理だった。「相手方は、自身に都合のよい資産のみを固有財産であると主張し、事業上の債務についてはすべて偽造であるとして負担を免れようとしています」代理人の声は整っていた。美琴は黙って聞いた。次に示されたのは桐生承継信託第一号だった。征士郎側は、その受益権についても、美琴が長年榊原家の事業へ自ら信用を供与してきた以上、債務整理と切り離して扱うべきではないと主張した。さらに、美琴が離婚後に桐生姓へ戻る意向を周囲へ示していることまで、債務との関係を断ち切ろうとする姿勢の表れであるかのように語った。美琴はそこで初めて征士郎を見た。二十二年間、会社の契約や役員会について質問すれば「君は家庭を見ていればいい」と言い、帳簿の数字へ意見を出せば「正式な役員ではない」と退けた男だった。その同じ人間が、今は美琴を事業の拡大へ積極的に関わった共同経営者として扱っている。久世は反論のために立ち上がった。まず、ミコト・アセットで美琴が出席したとされる株主総会と取締役会について、会議室そのものが存在
久世が机の上へ並べた資料は、契約の種類ごとではなく、「榊原美琴」という名前がどのように使われたかで分けられていた。銀行関係、保証契約、ミコト・アセット、医療記録、保険、委任状。昨日まで別々の問題として追っていた書類が、六つの束へ組み替えられている。美琴は椅子へ座る前にそれらを眺め、どの束にも自分の署名と実印の痕跡があることを確かめた。自分の人生が紙へ解体され、用途ごとに分類されているようだった。「今まで、偽造された書類を一件ずつ追ってきました」久世は壁面モニターへ資料を映した。最初に示されたのは、美琴の実際の経歴だった。十八歳で征士郎と結婚し、榊原家へ入り、正式な役職も給与もないまま経理、資金繰り、取引先との調整を担ったこと。家では喜和子の世話をし、会社では表に名前が出ない仕事を引き受け、必要な時だけ「専務夫人」として頭を下げてきたことが年代順に記されている。「こちらが、現実のあなたです」美琴は画面を見つめた。そこにある事実はどれも知っている。それでも、第三者の手で簡潔に並べられると、二十二年間の自分が驚くほど権限を持たない人間だったことが分かった。会社の資金が尽きそうな時には数字を計算したのに、融資を決める権限はない。取引先へ支払い延期を頼んだのに、役員会へ正式に呼ばれることはない。毎月の帳簿を把握していても、報酬は一度も支払われなかった。久世は画面を切り替えた。今度は、まるで別人の履歴だった。巨額の個人保証を繰り返し、金融機関から信用を得る資産家。関連会社の代表取締役として病院法人への投資や不動産取得を決裁し、榊原医療開発への融資を承認する経営者。生命保険へ自ら加入し、受取人と保険金額を調整する資産管理者。さらに夫へ口座、株式、議決権、財産管理を任せる委任状へ署名し続けた妻として記録されている。「そして、直近になると別の要素が加わります」久世が一枚の医療関係資料を拡大した。そこには、強い不安、判断の揺らぎ、配偶者による補助が必要という趣旨の記述が並んでいた。美琴が会ったことのない医師との面談記録や、薬の影響が疑われる時期の書類も含まれている。成年後見を求めた征士郎側の主張と重ねれば、書類上の美琴は最近になって急速に、精神疾患を抱え、自分では重要な判断をできない患者へ変化していた。「矛盾していませんか」美琴は画面を見たまま尋ねた。「何十億円も
ミコト・アセットマネジメントの議事録は、見た目だけなら申し分のない会社の記録だった。製本された冊子には年度ごとの株主総会と取締役会が整然と並び、開催日時、出席者、審議事項、決議内容まで欠けることなく記されている。美琴は久世の事務所の長机に座り、その一冊目を開いたまま、しばらく最初のページから視線を動かせなかった。代表取締役として記載されているのは自分の名前だった。議長として開会を宣言し、貸付案件を説明し、出席者へ意見を求め、最後にはすべての議案を承認したことになっている。「これ、全部で何回あるんですか」久世は手元の一覧へ目を落とした。「確認できた範囲で、株主総会が九回、取締役会が三十七回です。書面決議扱いのものを含めれば、さらに増えます」と答えた。美琴は思わずページの角を押さえる指へ力を込めた。三年前に設立された会社であるにもかかわらず、月によっては二度も取締役会が開かれている。自分は会社の存在さえ知らなかったのに、紙の上の榊原美琴は、現実の美琴よりはるかに頻繁に経営判断をしていた。議事録の内容は軽いものではなかった。榊原医療開発への一億円単位の貸付、病院法人への出資、医療機器会社の債務保証、地方都市の土地購入、関連会社株式の取得。中には、前日に資金不足が判明した榊原医療開発へ緊急融資を行う議案もあり、議事録上では美琴自身が「取引関係維持のため必要」と説明したことになっている。別の会議では、病院法人への投資について「将来の医療事業拡大に資する」と発言したと記録されていた。美琴はその文章を読み、奇妙な息苦しさを覚えた。自分なら使いそうな言い回しではない。けれど外部の人間には、そんなことは分からない。そこに署名と実印があり、議事録として整えられていれば、代表取締役本人が話した言葉として扱われる。「この議事録は、会社の中に置かれていただけではないんですね」「ええ」久世は別のファイルを開いた。銀行、リース会社、病院法人から取り寄せた審査資料の中に、ミコト・アセットの議事録写しが添付されている。融資審査では、美琴が取締役会を主導し、自ら投資案件を説明した人物として扱われていた。金融機関側のメモには〈代表者の事業理解は深い〉〈榊原医療開発との関係も本人が説明〉という記載まである。「会ってもいないのに、私の事業理解が深いことになっているんですか」「担当者が美琴
筆跡鑑定人が持参した資料は、前に見たものより薄かった。それなのに、美琴は表紙へ触れるまでに少し時間がかかった。九条家の応接室には午前の光が斜めに差し込み、長机の上には華帆が過去三年間に残した手書き資料の複写が並んでいる。白い花の誕生日カード、買い物を頼まれた時の走り書き、病院へ提出した申請書、美琴宛ての短い手紙。どれも当時は疑う理由すらなかった物ばかりで、今は一文字ずつ線の癖を見られるために透明な袋へ収められていた。「結論から申し上げれば、同一筆者と断定する段階ではありません」鑑定人は最初にそう告げた。美琴は胸の奥で固くなっていたものが僅かに緩むのを感じたが、安心したわけではなかった。鑑定人はすぐに、直近三年間の移植関係書類にある偽造署名と華帆の自然筆跡には、複数の共通特徴が見つかったと続けた。文字の形そのものではなく、筆圧の入れ方、曲線から払いへ移る時の小さな止まり、縦線を書き始める際に紙へ強くペン先を置く癖が似ているという。透明なシートを重ねると、全く違う言葉の中にも同じ動きが浮かび上がった。華帆が書いた〈お姉ちゃんへ〉の「姉」の縦線と、移植同意書にある〈榊原美琴〉の「琴」の縦画には、始点だけ強く紙を押し、その直後に力を抜く癖がある。さらに、長い横線の終わりを僅かに上向きへ返す動きも共通していた。鑑定人はあくまで可能性の話として説明し、類似だけで本人と決めつけることはできないと何度も念を押した。「比較資料を増やせば、もう少し精度は上がりますか」美琴が尋ねると、鑑定人は頷いた。「年代の分かるものが多いほど助かります。特に、急いで書いたものと丁寧に書いたものの両方があるといいでしょう」と答える。その声は淡々としていたが、美琴にはありがたかった。ここで華帆が書いたと断定されれば、怒りの向け先は簡単になる。けれど簡単な答えほど、今の美琴は警戒するようになっていた。久世が病院関係の申請書を一枚取り上げた。「華帆さん本人が提出した入院費助成の申請です。日付も本人提出も確認できています」と言い、別の買い物メモと並べた。美琴はその二枚を見ながら、華帆が榊原邸へ来た最初の頃を思い出した。文字を書く姿を何度も見ていたはずなのに、どんな持ち方をしていたかまでは覚えていない。姉を慕うように隣へ座り、「お姉ちゃんの字って綺麗」と家計簿を覗き込んでいたことだけが、妙にはっきり