INICIAR SESIÓN配送車は、濡れた路面を削るような音を立てて止まった。
急制動に身体を投げ出され、美琴は胸へ抱いていた紙袋を両腕で庇った。助手席の足元へ数枚の資料が滑り落ちる。二十二年前の身辺調査書。その表紙が泥のついた靴底のそばで半ば開き、「桐生美琴」の文字を晒していた。
耳へ当てた携帯電話からは、もう呼び出し音が聞こえない。
確かめようと画面へ目を落とした瞬間、運転席側の窓が強く叩かれた。
「窓を開けてください」
雨音を貫く、征士郎の声だった。
配送車の運転手は、美琴と窓の外に立つ男を交互に見た。征士郎は濃紺の傘を差し、濡れた山道には不似合いな仕立てのよい背広を着ている。乱れのない髪、落ち着いた姿勢、抑えられた声。美琴を追って山道を駆けてきた人間には見えなかった。
背後には榊原家の黒い車が、道を塞ぐように停まっている。
「あなた、誰ですか」
運転手が窓をわずかに下ろした。
「榊原征士郎と申します。そちらにいる女性の夫です」
征士郎は内ポケットから名刺入れを取り出した。雨に濡らさぬよう指先で一枚抜き、開いた窓の隙間から差し入れる。
白い名刺には、榊原医療開発専務取締役という肩書が印刷されていた。
「妻がご迷惑をおかけしました」
「迷惑というか……この人、追われてるって」
「家族間で少々行き違いがありまして」
征士郎は困ったように眉を下げた。
「妻は昨日からひどく混乱しています。病気の妹の手術を巡って感情的になり、会社の資料を持ったまま自宅を出てしまったのです。警察にも相談しています」
「違います」
美琴はすぐに言った。
「この人は、私の口座を勝手に解約しました。病院の記録も偽造されています。警察へは、私の方から――」
「美琴」
窓の外から名を呼ばれ、声が止まった。
それでも二十二年間、逆らう前に黙ることを覚えさせられてきた声だった。身体が先に反応し、喉が狭くなる。
征士郎は運転手へ視線を戻した。
「ご覧の通りです。今は誰が何を説明しても、敵だと思い込んでしまう」
「思い込んでなどいません」
「妻は昨夜、妹へ手を上げました。今朝は会社へ押しかけ、機密資料を持ち出しています。健康状態も心配で、担当医からは安静にするよう言われているところです」
病院には、美琴が提供へ前向きだという記録が残されている。
真実の一部だけを選び、順番を整えれば、美琴は簡単に異常な妻へ変えられる。
運転手の目から、先ほどまでの警戒が薄れていった。
「でも、この人、裸足で山を走ってたんですよ」
「妻がそこまで追い詰められていることに、夫として責任を感じています」
雨粒が傘の縁から落ち、肩を濡らした。
「これ以上、見知らぬ方を巻き込みたくありません。妻はこちらで保護します。ご親切に感謝いたします」
「保護ではありません」
美琴は携帯電話を握った。
「この人と一緒に行けば、何をされるか分かりません。警察へ連れていってください。先ほどの交番ではなく、別の――」
画面が暗くなっていた。
通話履歴には、発信した番号と、通話時間一秒の表示が残っている。
誰かが出た。
美琴の声は届かなかったのだろうか。
「電話、返してもらえますか」
「お願いです。もう一度だけ、かけさせてください」
「奥さん。悪いけど、俺も仕事中なんです。旦那さんが来てるなら、夫婦で話した方がいいでしょう」
「美琴、降りなさい」
征士郎が言った。
その声の奥に、先ほどまで他人へ向けていた柔らかさはなかった。
運転手もそれに気づいたのか、一瞬だけ眉をひそめた。だが名刺へ再び目を落とし、ためらいながらも助手席の扉を解錠した。
小さな機械音が、美琴の耳には錠前の外れる音ではなく、逃げ道が閉じる音に聞こえた。
「警察へ確認してからにしてください」
「旦那さんが警察に相談済みだって言ってるでしょう」
「俺には、どっちが本当か分からない。でも、このまま連れていくわけにもいかないんですよ」
その通りだった。
見知らぬ女が、夫に追われていると言う。
一方の夫は、名刺を差し出し、警察へ相談済みだと説明する。濡れた服で資料を抱き、泣き腫らした顔で訴える美琴より、どちらが信じられるかは明らかだった。
征士郎はすでに、社会の中で信じられる顔を作り終えていた。
美琴は紙袋を抱え直した。
助手席から足を下ろす。靴を失った右足が冷たい泥へ触れ、小石が破れた靴下越しに刺さった。
征士郎は傘を美琴の頭上へ傾けた。
夫が妻を気遣う、穏やかな仕草だった。
その手が美琴の肘を掴む。
指は痛いほど強かった。
「資料を渡しなさい」
唇をほとんど動かさず、征士郎が囁いた。
「嫌です」
「ここで騒げば、運転手も警察も、ますます君を信じなくなる」
顔には微笑を残したまま、指だけが深く食い込む。
美琴は運転手を見た。
彼は気まずそうに視線を逸らし、携帯電話を受け取ると窓を閉めた。配送車はゆっくりと後退し、黒い車の脇を抜けて走り去った。
赤い尾灯が雨の向こうへ消える。
美琴の耳には、発信先で一度だけつながった通話の無音が残っていた。
「車へ乗れ」
専属運転手が後部座席の扉を開ける。美琴はその男の顔を見た。長年、屋敷と会社を行き来する際に何度も世話になった人物だった。
「お願いです。警察署へ行ってください」
美琴は後部座席へ押し込まれた。
征士郎も隣へ乗る。扉が閉まると、雨音が遠ざかり、革と香水の匂いが満ちた密室になった。
車が発進する。
美琴は資料を膝へ置き、右手で扉の取っ手へ触れた。施錠を示す小さな突起は下がっている。
征士郎は答えず、濡れた袖口を布で拭った。
美琴は窓の外を見た。
山道を下り、市街地へ戻るものと思っていた。だが車は途中の分岐で、自宅とは反対方向へ曲がった。
海を示す案内標識が、雨に濡れて青く光っている。
「この道は、家へ戻る道ではありません」
「少し静かな場所で話をする」
背中に冷たいものが走った。
「警察署へ行ってください」
「警察では話にならなかったのだろう」
征士郎は前を向いたまま言った。
「君の説明には証拠がない。私が君を騙した、薬を飲ませようとした、臓器を奪おうとしている。そんな話を、誰が信じると思う」
美琴は膝の資料へ手を置いた。
「ここにあります」
「会社の内部資料を盗み出したという証拠ならな」
「私を結婚前から調べていた記録です。父の会社、株式、信託、健康状態まで」
「企業同士の婚姻には調査が伴う。珍しいことではない」
「目的欄には、資産と議決権の長期管理と書かれていました」
征士郎の横顔は動かなかった。
「三年前の資料には、私の検体を無断で使った記録があります。本人への告知は不要と書かれていました」
「それで?」
平坦な問いだった。
美琴は夫の顔を見た。
「それで、とはどういう意味ですか」
「知ったところで何が変わる」
「病院では、私がすでに説明を受け、提供へ前向きな意思を示したことになっています。六月十七日、私は会社にいました。誰が私のふりをしたのですか」
「病院側の記録違いだろう」
「本人確認書類と署名があるそうです」
「なら、君が忘れているだけではないのか」
「また私を、正常ではないことにするのですか」
征士郎はようやく美琴へ顔を向けた。
「今の君を見れば、誰でもそう思う」
「私をこうしたのは、あなたです」
「違う。君が従わなかったからだ」
「書類へ署名し、手術を受ければよかった。そうすれば貸金庫へ行く必要も、会社の倉庫を漁る必要も、警察で恥を晒す必要もなかった」
「私の口座を解約したのは、署名を拒む前から決めていたのでしょう」
「術後の管理に必要だった」
「関連会社へ全額移すことが?」
「資金を分散させるより効率がいい」
「私のお金です」
「夫婦の財産だ」
「結婚前の預金も、父から相続したお金も入っていました」
「二十二年間、この家で生活できたのは誰のおかげだ」
美琴は窓へ目を向けた。
街並みが途切れ、海岸沿いの道へ入っている。鉛色の海が、ガードレールの向こうで荒れていた。雨に煙る水平線は曖昧で、空と海の境が見えない。
「華帆との子どもは、どうするつもりだったのですか」
「今、その話は関係ない」
「関係があります。私の肝臓を華帆へ渡し、華帆にあなたの子どもを産ませる。私はそのあとも妻として家に残り、会社を支える。そういう計画だったのですか」
「華帆が余計なことを言ったようだな」
「否定しないのですね」
「子どもは守る」
「私たちの子どもには、存在しなかったと言ったのに」
「またその話か」
「あの時のことと、今を同じにするな」
「あなたにとって違うのは、母親だけでしょう」
「華帆の身体に負担をかけるな。今は情緒が不安定な時期だ」
「私の身体へは、肝臓を切り取る負担をかけてもよいのですか」
「君は健康だ」
「健康な人間には、未来がないのですか」
「私との結婚は、父の会社と株式を手に入れるためだったのですか」
「答えてください」
「何を今さら」
「では、本当なのですね」
「桐生宗一郎の会社は、あのままなら潰れていた」
「あなたが取引停止を仕組んだのですか」
「私は機会を利用しただけだ」
「冬真と関わり続ければ会社を潰されるという話も、嘘だったのですか」
二十二年前、冬真へ別れを告げることさえできなかった。
連絡を絶ち、征士郎へ嫁ぐことが父と従業員を守る唯一の道だと信じた。
冬真が自分をどれほど恨んだとしても仕方がないと思っていた。
あの選択の土台そのものが、征士郎の作った嘘だった。
「どうして、私だったのですか」
「宗一郎の一人娘だったからだ」
「君と婚姻関係を結べば、株式と議決権を長期的に管理できる。宗一郎が死ねば、桐生家の資産も君を通じて動かせる。当時としては最も確実な方法だった」
「私は十八歳でした」
「成人していた」
「父が倒れ、会社を失うと脅され、誰にも相談できなかった」
「それでも署名したのは君だ」
「二十二年間、私が会社の経理を担ってきたことも、最初から計算していたのですか」
「君に数字を見る力があると分かったのは、結婚してからだ。正式な役職を与えずとも、君は会社のために働いた。父親の会社を守っていると思わせておけば、いくらでも無理をした」
「私が倒れそうになっても、休ませなかった」
「君が自分で働いたんだ」
「あなたは、私の作った資料へ自分の名前を書いた」
「妻の仕事は夫の成果の一部だ」
「給料も、肩書も、何もくれなかった」
「生活は保障した」
だから財産も、労働も、身体も差し出すのが当然だと。
「華帆の病気が悪化した時、私が提供候補になると知った」
「それで、利用できるものがもう一つ増えた」
「そうだ」
「最初から臓器が目的だったわけではない」
「華帆が生まれたのは、君と結婚した後だ。病状が悪化し、君が候補になり得ると判明した。それなら使わない理由がない」
「家族の中で融通できるものを、外から探す必要はない」
「私の肝臓は、会社の資金ではありません」
「君は私の妻だ」
「君が従っていれば、何も知らずに穏やかに暮らせた。手術が終われば療養させ、回復した後は今まで通り家へ戻すつもりだった」
「華帆とあなたの子どもがいる家へ?」
「表向きは何も変わらない」
「私の口座も株式も、あなたが管理したままで?」
「君には難しい判断をさせない方がいい」
海岸道路から細い上り坂へ入る。風が強まり、車体がわずかに揺れた。
前方に、崖沿いの展望駐車場が見えた。
雨の日には訪れる者もいない、古びた場所だった。海側には低い柵が続き、その向こうは切り立った崖になっている。
駐車場の中央には白い車が停まり、その傍らに華帆が立っていた。淡い色の外套に透明な傘を差し、病院へ向かったはずなのに、化粧も髪も乱れていない。
黒い車が停まると、征士郎は先に降り、美琴側の扉を開けた。
「降りなさい」
「ここで何をするつもりですか」
「話を終わらせる」
美琴は資料を抱き、車外へ出た。
潮を含んだ風が強く吹きつける。濡れた髪が頬へ張りつき、裸足の右足から体温が奪われた。
「お姉ちゃん、そんな格好で何してるの」
心配する妹の声だった。だが目は、美琴の胸にある紙袋だけを見ていた。
「それ、返して」
「これは私に関する資料です」
「会社のものでしょう?」
「私の血液を無断で調べた記録も入っています」
「だから必要だったんだよ」
華帆は傘を傾け、一歩近づいた。風に煽られた透明な傘が大きく歪む。
「私の命がかかってるんだから」
「私の同意は必要ないの?」
「お姉ちゃんなら、最後には助けてくれると思ってた」
「助けを求める人は、先に相手の口座を奪い、逃げ道を塞いだりしません」
「お義兄さんだって、好きでこんなことをしたわけじゃないよ。お姉ちゃんが言うことを聞かないからでしょう」
「報告書を返して。手術へ同意してくれたら、もう責めないから」
「あなたが私を責めるのですか」
「だって、お姉ちゃんのせいで会社まで危なくなってる」
華帆は傘の柄を両手で握り、声を強めた。
「その資料が外へ出たら、病院との契約も信用も全部なくなるかもしれない。会社が潰れたら、お義兄さんは何もかも失うんだよ」
「不正をした結果です」
「そんな言い方しないで!」
「お義兄さんは、ずっと家族のために働いてきたの。お姉ちゃんだって、この会社のお金で暮らしてきたでしょう」
「その会社を二十二年間支えたのは私です」
「でも、誰もお姉ちゃんに頼んでない」
征士郎の隣で帳簿を見続けた夜も、資金不足を埋めるため頭を下げた日も、誰も頼んでいないことにされる。
「手術を断ったら、会社が潰れる」
華帆は腹部を庇うように手を当てた。
「この子が生まれる前に、お義兄さんが逮捕されたり、父親として何もできなくなったりしたら、どうするの?」
「それも私の責任だと言うの?」
「お姉ちゃんが黙って同意すれば、何も起きないんだよ」
「私は病気なの。このままじゃ、この子を産めないかもしれない。お姉ちゃんには健康な身体がある。会社のことも分かる。四十歳までちゃんと生きてきた。少しくらい、私に分けてくれてもいいでしょう」
美琴が二十二年かけて積み上げたものは、華帆にとって少しずつ分けてもらえるものだった。
「私は同意しません」
美琴は雨に濡れた資料を抱き直した。
「資料も渡しません。病院へ行き、私の名で作られた記録をすべて調べます。口座と貸金庫についても、正式に手続きをします」
華帆の目から涙が消えた。征士郎が二人の間へ入る。
「十分だ。美琴、車へ戻れ」
「戻りません」
「今は興奮している。自宅で落ち着いてから話す」
「自宅には帰りません」
「帰る場所はあそこしかない」
美琴は征士郎を見た。雨に濡れた夫の顔は、二十二年間見続けたものと同じだった。
けれどもう、その表情の奥に愛情を探すことはなかった。
紙袋を抱く腕へ力を込める。
「私には、どこへ行くかを決める権利があります」
「妻が夫の許可なく、どこへ行くつもりだ」
美琴は静かに息を吸った。潮の匂いが肺へ入り、冷たい雨が頬を伝う。
裸足の足裏は傷つき、立っているだけで痛んだ。それでも今、自分の身体がここにあることを、はっきりと感じていた。
「私はあなたの妻である前に、私です」
征士郎の顔から、表情が消えた。
次の瞬間、彼の手が美琴の腕を強く掴んだ。
これまで他人の前では決して見せなかった怒りが、初めて剥き出しになった。
「誰のおかげで、その名前を守ってこられたと思っている」
低い声が、荒れた海の音より冷たく響いた。
大学病院の面談室には、消毒薬の匂いが薄く残っていた。壁際には肝臓の模式図と移植手術の説明資料が並び、中央のテーブルには、美琴が三度ここを訪れたことになっている面談記録が置かれている。面談日時、体調、提供意思、家族関係まで、記録の上ではすべて整っていた。久世は美琴の隣に座り、冬真は少し離れた壁際に立っていた。病院側からは移植部門の責任者と法務担当者も同席しているが、美琴が会いたいと求めたのは記録へ署名した医師本人だった。呼び出されて入ってきた五十代ほどの医師は、扉を閉めながら久世へ一礼し、それから美琴へ顔を向けた。その瞬間、医師の足が止まった。美琴は何も言わずに待った。男は一度瞬きをし、机の上の記録へ視線を落としたあと、もう一度美琴の顔を見る。確認するような視線が、目元から頬、髪へと動き、それでも何かを否定できないように口元だけが強張っていった。「先生」久世の声が静かに落ちた。「榊原美琴さんです。あなたが生体肝移植の提供候補者として、三度面談したと記録している本人です」医師は椅子へ座らなかった。手にしていたファイルを胸元へ抱えたまま、しばらく言葉を探している。美琴はその沈黙の意味を理解し始めていたが、自分から答えを与えなかった。やがて医師は乾いた唇を一度舐め、掠れた声で言った。「……違います」病院側の法務担当者が顔を上げた。久世は表情を変えず、「何がです」と尋ねる。医師は美琴から目を逸らさないまま、今度ははっきりと言った。「面談した女性とは、顔が違う」胸の奥へ冷たいものが差し込んだ。来院した記憶がない以上、記録が作られたか、別人が現れた可能性は考えていた。それでも、自分の代わりに誰かがこの部屋へ座り、自分の身体を切る話を聞いていたのだと思うと、背中に汗が滲んだ。「座ってください」久世に促され、医師はようやく椅子へ腰を下ろした。美琴は自分の呼吸を整えながら質問した。「その女性は、どんな人でしたか」と口にすると、医師はすぐには答えず、目の前の面談記録を開いた。逃げ道を探しているようにも、記憶と記録を照合しているようにも見えた。「年齢は……四十歳前後に見えました。髪は黒く、肩より少し長かったと思います。毎回マスクをしていて、眼鏡もかけていた。季節的にマスク自体は不自然ではありませんでしたし、本人は感染症を気にしていると説明されていました」「声は?
久世が持ち込んだ書類は、一冊のファイルには収まらなかった。午前中だけで三つの厚いバインダーが机を占領し、その横には複写された契約書、印鑑証明書、登記事項証明書、保険関係の資料が年代別に積まれている。美琴は椅子へ腰を下ろす前に、それらの背表紙へ貼られた年号を目で追った。十八歳で榊原家へ嫁いだ年から現在まで、二十二年分。昨日まで数字として眺めていた時間が、今度は自分の名前を印刷された紙となって目の前へ現れていた。「集められるだけ集めました」久世は最初のバインダーを開いた。関連会社への貸付契約、債務確認書、役員責任に関する確認書、個人保証、株式の議決権委任、生命保険。ページをめくるたび、契約者欄や保証人欄に〈榊原美琴〉の文字が現れ、その横には見慣れた朱色の印影が押されていた。「これ……私の実印です」「印影だけ見れば、そうです。添付された印鑑証明書も真正です」美琴は唇を閉じた。実印は長いあいだ榊原家の金庫に保管されていた。結婚当初、喜和子から「大事な物は家の者がまとめて管理した方が安全です」と言われ、通帳と一緒に預けたことを覚えている。必要な時は征士郎が出してくれたし、美琴自身も、それを不自然だとは思わなかった。久世が一枚を指で押さえた。「署名もかなり似ています」と言う。美琴は自分の名を見つめた。榊原の『榊』を書く時に木偏を少し細くする癖、美琴の『琴』の最後をわずかに右へ流す癖まで似ている。急いで書いた自分の署名だと言われれば、数年前までなら疑わなかったかもしれない。「これだけ揃っていたら、私が違うと言っても……」「否定するだけでは弱いでしょうね」久世は慰めるような言葉を挟まなかった。だからこそ、美琴は視線を逸らさずに済んだ。彼が求めているのは、美琴を傷つけない説明ではなく、相手が否定できない材料だと分かっている。「一枚ずつ見せてください」「全部ですか」「はい。契約日と、金額と、相手先も」久世は一瞬だけ眼鏡の奥で目を細め、それから最初のバインダーを美琴の方へ押した。昼前まで、部屋には紙をめくる音とキーボードを打つ音だけが続いた。美琴は契約日を自分の帳簿へ書き写し、同じ年の資金繰り表と照合していった。最初に違和感を覚えたのは、十七年前の保証契約だった。榊原医療開発の関連会社が金融機関から借り入れた三千万円について、美琴が連帯保証人になったことにな
白い検査報告書が、机の上でかすかに音を立てた。久世が指先で向きを変え、美琴の正面へ滑らせたからだった。紙面には、採取された錠剤の外観、含有成分、製造番号、照合結果が整然と並んでいる。美琴は最初の数行を読み進めたところで、そこに書かれた薬品名が自分へ処方された記憶のないものだと気づいた。「確認されたのは二種類です」向かいに座る医師は、九条家の系列病院には所属していなかった。久世が利害関係のない第三者として選んだ医師で、持ち込まれた錠剤の分析も外部機関を通して行われているという。彼は美琴の表情を窺うような間を置かず、ただ必要な情報だけを順番に説明した。「一つは、美琴さんが処方を受けていた通常の睡眠導入薬です。問題はもう一つです。複数の錠剤から、処方記録に存在しない強い鎮静作用を持つ成分が検出されています。同じ袋に入っていても、すべてが同一ではありません」美琴は報告書へ視線を落としたまま、右手の親指を左の指先へ押しつけた。自分が毎晩飲んでいたのは、征士郎が寝室へ持ってきた小さな白い錠剤だった。水差しからグラスへ水を注ぎ、枕元へ置き、「今日は疲れているだろう」と穏やかに言われる。それが結婚生活の中であまりにも当たり前になっていて、いつから始まったのか正確には思い出せない。「長期間、混在した状態で服用していた可能性がありますか」久世が尋ねると、医師は資料を一枚めくった。「残っている錠剤だけでは期間までは特定できません。ただ、美琴さんがお話しになった症状とは矛盾しません」と答え、今度は美琴へ顔を向けた。眠気が翌朝まで残ること、頭が重いこと、集中しづらくなること、記憶が曖昧になること。聞かれるたびに、美琴は一つずつ頷いた。「朝、数字が出てこないことがありました」声にした途端、会議室の冷たい空気が蘇った。三年前、資金繰りが厳しくなった月の役員会で、取引先への支払額を尋ねられた時だった。前夜まで何度も確認していた数字が、口を開いた瞬間に頭から消えた。征士郎は隣から資料を取り上げ、「無理をしなくていい」と笑い、美琴に代わって答えた。別の日には、取引銀行との面談中に、前月の短期借入額を取り違えたことがあった。帰宅後、美琴は自分の帳簿を確かめ、書かれた数字と記憶の食い違いに青ざめた。その時も征士郎は怒らなかった。肩へ手を置き、「年齢のせいだ」「最近は物忘れが増えたな」と
九条家の一室に運び込まれた段ボール箱は、朝から一つずつ机の脇へ積み上げられていた。榊原邸の台所の床下から取り戻した手書きの帳簿は、湿気を吸って端が波打ち、古いものほど紙が黄ばんでいる。美琴は表紙に記した年を確かめながら、それらを年代順に並べていった。十八歳で榊原家へ嫁いだ年から、四十歳になった現在まで、抜けている月はほとんどなかった。二十二年という時間が、思い出ではなく、紙の厚みとなって目の前に積まれている。家計簿のように見える薄い大学ノートもあれば、会社の廃棄用紙を裏返して綴じたものもある。けれど中身は、食費や光熱費を記したものではない。銀行への返済日、手形の決済日、仕入先への支払い延期、役員が会社名義で落とした私的な会食費、不自然に膨らんだコンサルタント料、表の月次資料から消えた資金移動を、美琴が自分のために書き留め続けた記録だった。正式な肩書も社員証もなかった彼女は、会議室の外で聞いた数字と、征士郎が自宅へ持ち帰った資料と、取引先からかかってきた電話をつなぎ合わせ、会社が翌月を越えられるかを毎晩計算していた。「これを、全部お一人で?」久世朔臣は、銀縁眼鏡の奥で目を細めた。机の向かい側には彼が持ち込んだノートパソコンが開かれ、画面には美琴が入力した数字が年ごとに並んでいる。問いかけに驚きより確認の響きが強いところが、いかにも彼らしかった。美琴は古い帳面を一冊開き、二十年前の四月に引いた赤い線を指でなぞった。「最初は、会社が潰れたら困ると思っただけです。父の会社を救ってもらったのだから、今度は私が榊原家を支えなければいけないと……そう思っていました」口にすると、喉の奥へ乾いたものが引っかかった。救ってもらった、という言葉を二十二年間、何度使ってきただろう。征士郎に言われたからではない。喜和子に恩を説かれたからでもない。美琴自身がそう信じることで、朝から深夜まで働いても名刺一枚与えられず、経営判断へ口を出した時だけ「妻は家庭を見ていればいい」と笑われる日々に意味を与えていた。けれど、帳簿を一冊ずつ外へ出してみると、その意味だけがひどく脆かった。久世はページを数枚めくり、右端に並んだ小さな記号を見た。「△の横に二重線。これは何です」と尋ねられ、美琴は当時の記憶を探すまでもなく答えた。支払い延期を取引先が二度以上受け入れている印、翌月に現金が足りなければ取
榊原医療開発本社の一階ホールには、午前十時を過ぎる前から報道陣が集まり始めていた。 正面の壁には会社の紋章。中央には白い布を掛けた長机が置かれ、その前へ複数のカメラが並んでいる。照明の熱と機材の金属臭が、広い空間へ薄くこもっていた。 征士郎は開始予定時刻の五分前に現れた。 濃紺のスーツ。黒ではない。喪に服す夫ではなく、生還した妻を迎えたい男として見せるためだった。襟元は整い、頬にはわずかな疲労が残っている。無精髭はなく、ただ目の下だけを薄く落ちくぼませていた。 彼の隣には華帆がいた。 柔らかな灰色のワンピースに、薄い黒のカーディガン。顔色は白く、口元にはほとんど色がない。長い袖から覗く手首は細く、片手は胸元へ添えられている。 妊娠していることは伏せられていた。 記者たちが一斉に立ち上がり、光が何度も瞬いた。 征士郎は深く頭を下げた。「本日は、妻・美琴の件でお集まりいただき、ありがとうございます」 低く、静かな声だった。「まず、妻が生きて戻ってきたことを、夫として心から喜んでおります。事故現場では生存が絶望視され、家族葬まで行いました。あの時のことを思えば、今も妻がこの世にいるというだけで、言葉にできないほど救われています」 華帆が目元へ手巾を当てる。 記者の一人が、すぐに質問した。「奥様とは、その後お会いになりましたか」 征士郎は一瞬、言葉を飲み込むように伏し目になった。「いいえ」 会場がざわめく。「妻は現在、九条家の本邸にいると聞いております。しかし、家族である私たちには居場所の詳細も、治療状況も知らされていません。面会を求めても、弁護士を通せという回答しかありませんでした」「奥様ご自身が面会を拒否しているのでは?」「事故直後の妻が、どこまで自分の意思で判断できているのか。私はそこを心配しています」 征士郎は記者を正面から見た。「妻は崖から転落し、頭部にも重い傷を負いました。長年、不眠や強い不安にも苦しんでいた。そんな妻が目覚めて間もない時期に、家族から隔離され、五年間も生存を隠していた人物の保護下へ置かれているのです」 九条冬真という名を、征士郎はまだ口にしなかった。 先に、死亡を偽装した人物という形を置く。 記者たちの間で、紙をめくる音が増える。「九条家が奥様を監禁しているとお考えですか」「断定するつも
白い紙の上に、二つの「榊原美琴」が並んでいた。 一つは、美琴が役所の確認室で書いたもの。 もう一つは、印鑑登録の廃止と再登録を申請した書類に残されていたものだった。 文字の大きさも、線の細さもよく似ている。 けれど最後の一画だけが違う。 本物は右上へ細く抜け、偽物は下へ落ちていた。 美琴は鑑定用の机へ左手を置き、指定された文章をもう一度書いた。 右肩を固定しているため、筆記にはまだ慣れない左手を使っている。それでも、幼い頃から身体へ染み込んだ字の運び方までは変わらなかった。「普段は右手で書かれるのですね」 向かいに座る筆跡鑑定人が尋ねた。「はい」「事故以前の筆跡も必要です。契約書、銀行関係、手紙など、ご本人が書いたことを確認できる資料はありますか」 久世が革の鞄から複数の書類を取り出した。「銀行の過去の届出書、榊原医療開発の取引先へ送った礼状、寺の記帳簿、本人が保管していた資金繰り帳です」 古びた大学ノートが机へ置かれる。 帳簿の表紙には、長年触れ続けた指の跡と、薄い油染みが残っている。 鑑定人は拡大鏡を使い、一つずつ線の特徴を確認した。「偽造された申請書は、かなりよく模倣されています」「二十二年間、私の署名を見ていた人がいます」「ご主人ですか」「はい」 美琴は偽造された文字を見た。 征士郎は、会社の契約書へ署名する美琴の手元を何度も見ていた。 役員の妻として礼状を書く時も。 銀行へ提出する説明書へ名を記す時も。 父の命日に寺の記帳簿へ筆を置く時も。 書き方を知る時間は十分にあった。 それでも、美琴が宗一郎から教わった最後の払いだけは再現できなかった。「長く見ていれば、形は真似できます」 鑑定人が言った。「ただ、字の終わらせ方や、筆圧が変化する位置、線を離す直前の動きは、書き手自身の習慣が出やすい。こちらは別人が模した可能性が高いと思われます」「正式な鑑定書をお願いします」 久世が答える。「印鑑登録の復旧手続きと、偽造文書に関する申立てへ使用します」 鑑定を終えた後、美琴たちは役所の別室へ移った。 机の上には、印鑑登録廃止届と、新たな印鑑を登録するための申請書が並べられている。 新しい実印の印影は、均一で整っていた。 美琴が使っていた印鑑には、「琴」の左下へ小さな欠けがある。宗一郎が作らせ